北陸信越工学教育協会会報 第45号 平成9年3月


新潟夏の学校1996

新潟大学工学部(国際交流委員会学術交流専門委員会委員) 合田 正毅


昨年の9月に、ドイツのマグデブルグ、オットーフォンゲーリック大学(以下マグデブルグ大学またはマ大)より学生17名を新潟大学に招き、約一ヶ月間「新潟夏の学校1996」(日本の文化と科学技術)を開催し、学生教官を交えた多角的な交流活動を行なった。この様な企画は本学では医学部が既に行なって来ているので本学では二件目の夏の学校になる。この度執筆依頼を受けた機会に、その概容や実施の苦労等を記してみたい。

経緯

 マグデブルグ大学は新潟大学工学部との交流実績を持ち、1994年には学部間の協力協定に調印しており、1996年には新潟大学との大学間の協力協定を締結した。この間、多数の研究者の往来があり、二年に渡りドイツ日本科学週間がマグデブルグ大学で開催され、5名の研究者が招待され、奨学生のプレゼントもあった。しかし、日本(工学部)側は国際交流の為の財政基盤が無いまま、苦しい対応を続けて来た。学部間協定締結の交渉時、ドイツ側は経済大国日本の国立大学は自分達以上の財政基盤の上に国際協力関係を維持出来るものと期待していたが、日本の大学の国際交流の為の財政基盤が殆ど無い事を知り、短期のカウンターバランスを求めないと大様さを示してくれた。しかし、戦後フンボルトやフルブライト奨学生でずいぶんお世話になった日本が経経済成長を遂げた今になってまだ相手によりかかってしか交流出来ない事態は大変苦痛であった。従って来訪者が来たときには、滞在費のねん出に労力を使い、せめてもと私費で接待することになり、出かける時には私費渡航と云う事態にもなった。

 この時期に先方より新潟での夏の学校開催の打診があった。研究者の往来は盛んにな ったが、留学生の交換はほとんど無い。幸い、日本国際教育協会が夏期短期講習会の開催支援をしていることから、是非この企画に乗り新潟に短期留学生を招待しようと1994年に工学部が動き出した。学生派遣の持つ意義はマグデブルグ大学側が熟知している様であった。

やや長い準備

 しかし、企画、財政、大学の宿舎やホームステイの確保、他学部及び学外の講師陣の確保、一ヶ月間の運営体制等全てに未経験で困難な問題を抱えており、従って、企画運営に携わる教官の過重な負担が問題であった。財政に関しては、国際教育協会からの支援がしっかりしており、金策に走り回らなくて済み、大変助かった。

 いっぽう苦労する場所は他に幾らでもあった。最後まで苦労したのは宿泊の確保であった。欧米の夏の学校は学生寮の使用を前提にしていて、これは大変合理的である。新潟大学には国際交流会館が在るが長期留学生の為の宿泊施設であり、入居希望者で溢れており、空き部屋は期待出来ない。短期用の宿泊施設は在るが、非常勤講師優先の教職員用の施設であり、利用困難である。学生寮を有料で使うのは、国有財産の又貸しとなり駄目だし、寮生とのトラブルも考慮せねばならない。結局大学の各々の部署が内部の整合性を保つことをもって筋だと判断すれば、既成の事実以外のものが入り込む余地は無く、道の無い所に道を拓いて行く国際交流事業は膨大な赤字を生みかねない宿泊に関して茨の道を歩む事になった。結局この問題は最後まで残り、政治折衝となったが、他に多くの解決すべき問題を抱えた身に見通しの立たない宿舎問題はボディーブローの様にこたえた。一方でホームステイも募集して初めて様子が分かるので心配の種であったが、留学生センター長や学内の教官が大いに心配して協力してくれたので、目標通りの件数を確保する事が出来、精神的にも大変有り難かった。

 講師に関しては、国際交流活動に対する理解は教官には在るので、負担をかぶることを承知の上で、協力的な対応をしていただき心強かった。

 次には企画運営の組織である。半年がかりで昨年の春、工学部に国際交流委員会を設置してもらい、その初仕事が今回の夏の学校の企画運営となった。更に各学科よりもう1名づつの実行委員を選出してもらい、事務官二名を含めて20名近くの実行委員会を組織した。学科や教官に直接メリットの無い理工系夏の学校に工学部として動き出すまでには時間がかかったが、二代に渡る学部長の意志が筆者等を支えてくれた。

 理工系の学生向けとはいえ、その国の文化を語らなければ若者の魂を揺り動かせないので、テーマは「日本の文化と科学技術」とした。授業の半分は日本語日本事情と日本文化とし、1/4 は日本の科学技術及び関連する研究室の見学、残りの 1/4 は県内の工場や公共施設見学とした。更にエクスカーションを兼ね京都への小旅行を計画した。

 最後に、この様な行事は一学部が行なうには守備範囲が広すぎ、実労は工学部が負うにしても、大学の留学センターが窓口になって行くのが良いのではないかと考えた。事実マグデブルグ大学では国際課が国際交流事業の事務局になって国際化を強力に推進している。しかしこれも関係事務局の消極的な姿勢により実現せず、名実ともに工学部主催で行くことになった。事務官はセンターの現状が弱体であることを言い、教官はかなり先を見てやや先走ってものを言い、この局面を動かすにも時間がかかると思われた。

 その他試行錯誤の約2年間の準備活動の後、ようやく夏の学校の開催となった。

開催

 9月4日になり、学生17名と引率教官1名が五十嵐キャンパスにやってきた。学部生と云うことであるが皆大きく大人びており、英語もかなり理解し、生き生きとした反応があった。特に良く英語を話す若者が引率教官であった。駅前のホテルから大学への誘導、ガイダンス、キャンパス案内、ウェルカムパーティー、ホームステイのホストファミリーへの引渡し、大学の宿舎への案内とキャンパスの初日はあわただしく過ぎて行く。学生は気力旺盛で、サッカーをしたい、テニスをしたい、水泳をしたい、友達を作りたい等と云ってはそこまで考えていなかった我々を戸惑わせた。学生は我々がとまどっているうちに9月の日本海に飛び込み、その結果急きょ室内プールを一部使わせる事となる。最初の一週間、実行委員はよろず相談員の如くであった。やって来たのは生身の人間であった。彼(女)等は、自立心、個性等がはっきりしており、判断力があり、なによりも生き生きしており、日本の学生の自我の未成熟が云われる時に、まぶしく見えた。学生とこの事を議論したところ、それは教育制度の違いによるとのことであった。私にはそれだけでなく、もっと深く文化に関わる問題に見えた。

 夏の学校の新潟開催のメリットの多くはドイツ側に在るが、これが日本側の学生にもメリットと成るように(工学部を中心に人文学部独文などの)学生の動員を計った。一応はアルバイターであるが、出来るだけ先方の学生との接触の機会を多く作った。しかしこの目論見は、親の心子知らずというか、アイディアが不足であったためか、世話役の教官が悲鳴を上げる結果となった。一方、研究室単位で接触したところは、ずいぶん盛り上がったようであった。

学生から見た夏の学校

 話は前後するが、ガイダンスを行なった際、国際シンポジューム並みに個人名入りのファイルをつくり、そこに最新の日程表、計画の概容とシラバス等の入ったパンフレット、ホームステイ及び大学の滞在先一覧、大学キャンパス案内と周辺の食料品店食事所マップ、食事後領収書を上手くもらえない学生の為の日本語の依頼文、新潟県新潟市の案内とツーリストマップ等いたれりつくせりの資料を入れて、学内での生協食堂の食券や緊急用のテレカ等と一緒に渡した。その中に、会期修了時に提出してもらう詳細なアンケート調査用紙も入っていた。その結果と修了時の学生との反省会の様子を基にこの夏の学校を振り返って見よう。

 日本語日本事情は、ボリュームたっぷりであったにも関わらず、講師陣の情熱は伝わった様であり概ね好評であった。日本文化はずば抜けて好評であり、次回充実すべき科目となった。日本の科学は概ね好評であったが、日本の工学は評価がばらついた。工学部は他に多くの協力すべき事項を持っていたため、授業への集中力には学科によりばらつきがあった。工場・施設見学は好評であったが、学生は日本の工場と云えば自動車工場を期待している様であった。京都への小旅行はエクスカーションとしても日本文化の紹介としても(当然ではあるが)人気が高かった。 企画・運営には我々の努力が通じたか、かなり高い評価があったが、それに比例して我々の疲労感もあった。

文化摩擦?

 全体として学生の目は確かであり、スケジュール過多で、自由時間が殆ど無いことと、我々の管理が行き届き過ぎて子供扱いすることに批判が集中した。中には、これぞ日本的な行動様式を象徴するものであり云々との論評もあり。苦笑せざるを得なかった。そうであれば、これは文化摩擦である。

 会期中に学生の一人が夕方自転車でキャンパス内の道路中央の車止めのスチールパイプに衝突し大怪我をした。事故と医療はドイツ側負担となっていたが、いざとなると、受け入れ側の責任を感じてしまうのが日本的感覚である。更に、車止めに蛍光塗料が塗ってなかったとか、近くの街灯が消えていたとか、ドイツの大学ではキャンパス内の事故は大学がカバーしてくれるとか、色々な話が引率教官を交えた席で出て来るに及んで、やや日独訴訟問題に発展する心配もあったが、何度か話し合っているうちに了解となった。ドイツでは大学のような良識の府にこの様な無粋なものを置かないとの話も出た。事実ドイツからの外国人講師は歴代この車止めにぶつかっているのだそうで、これも立派な?文化摩擦であった。ドイツの安全意識が日本の仲間内の安全意識と異なるのが興味深かった。

最後に

一ヶ月間の夏の学校の話題はつきないが、紙面がつきたので割愛する。この多忙な時代にかなりの時間と労力をつぎ込んだが、フェアウェルパーティーでの彼(女)等の心の揺れを感じて、私の心にも揺れ動くものが有った。本年には、この返礼として、マグデブルグ大学での夏の学校が計画されている。事の成りゆき上、工学部が今回の学生派遣の主力となるにしても、できればこのような機会を全学に押し広め、志の有る学生には広く派遣の機会が与えられるようになればと願っている。

(平成8年12月)