新大広報 平成6年度2号(平成6年10月)


特別寄稿

マグデブルグ オットーフォンゲーリック大学との学部間交流協定

国際交流委員会学術交流専門委員会 工学部委員 合田 正毅


 この度、6月末より7月初めにかけて、工学部長を始めとする新潟大学工学部の代表団T5名がドイツのマグデブルグ市にあるマグデブルグ・オットーフォンゲーリック大学を訪れ、同大学の機械工学部、電気工学部及び計算機工学部との交流協定を結ぶこととなった。この訪独は、昨年同大学の代表団が本学を訪れ、大学間交流への熱意を新潟大学と本学部に伝えたことに始まる。ことの経緯と、本学部の対応と、マグデブルグ大学訪問の様子と今後の同大学との国際交流への展望等を記してみたい。

事の始まりと経緯

マグデブルグ市はドイツのほぼ中心にあるザクセン・アンハルト州の州都であり、ベルリンの西約100Kmにあるヨーロッパ有数の古い歴史を持つ美しい町である。30年戦争や第二次大戦等で度々壊滅的に破壊されながら商業や重工業都市として栄えてきた。17世紀中ごろオットーフォンゲーリックにより「マグデブルグの半球」と呼ばれる真空の存在を実感する実験が行なわれた都市としても良く知られている。この度のドイツ再統一に際しドイツ連邦政府は旧東ドイツの復興に日本では信じられない程の情熱と努力を傾けているようであり、この州都は政府の強力な支援を受けて急速に復興しつつある。

 この流れの中で大学の果たす役割への期待には大変大きなものが感じられ、大学改革への大きな動きがあるようである。ザクセン・アンハルト州では州最大の工科大学、医学アカデミー、教員養成学校等を統合し教職員約2300名学生数約6000名程の総合大学を作り、旧西ドイツの大学とも強力な人事交流をし急速に力を付けつつある。ドイツ復興に向けての大学への熱い期待とそれに答えなければ生き残れない厳しい状況が相まって、T旧東ドイツの大学には熱気とともに最近の日本の大学改組の状況をも上回る厳しさもあるようである。改革への熱気は組織、財政、人事等の改革にとどまらず、(産業界を含む)社会に開かれた大学や大学間交流への流れをも産みだしているようである。その一貫として、この大学に国際課を置き、国際交流への強力な支援体制をつくり、大学の国際化を計っている。

 この様な状況のなか昨年春に同大学より工学部長のもとに新潟大学との大学間交流に向けての打診があった。工学部長の一宮教授が旧マグデブルグ工科大学の H. Wiele 教授と交流の実績を持っていることが大きな要因の一つであると思われる。しかし当時は教養部改組に関連した大学改組の最中にあり、工学部も4年前の工学部改組に続く大きな改組の最中であり、ほとんど対応出来なかった。そうこうするうちに、マグデブルグ大より代表団を11月に派遣するとの連絡が来た。本学部では国際交流進めるべしとのことであったので、本学の改組も一応一段落した後受け入れ体制を整えた。

 来訪した代表団は国際課のディレクター J. F. Maas 博士、機械工学部教授 H. Wiele 博士、及び医学部副部長 G. Wolf 博士であった。正味2日の滞在期間中、人文、経済、理、工、医の各学部、脳研等を精力的に訪れた。マグデブルグ大の意向は新潟大学との大学間交流に在るようであったが、準備の進んでいた工学部と学術及び留学生の交換に向けての覚書を交換して帰国した。この来訪では、30才台と思われる Maas 博士の活躍振りが注目された。本人に聞いたところ異例の採用であると云うことであった。翌年つまり本年に本学部がマグデブルグ大学を訪れることは、ほぼこの時点で固まっていた。本学部としても先方の大学を訪問した上で学部間協定に進むべしと云うことであった。

その後工学部では、新しい機能材料工学科の立ち上げに加え理工農三研究科の廃止を伴う自然科学研究科の改組計画が浮上し、国際交流はしばしお休みとなった。しかし、大学の活性化は組織改革ばかりでは達成されない。国内国際を問わず大学間交流等の実質的な研究交流活動は活性化の重要な要因の一つである。国際交流の話を進め定着させて行くことも大切な事である。もっとも筆者は、教養部改組以来これら全てに関わる立場となってしまい、下交渉を進めるに当りかなり苦しい時期もあった。 Maas 博士の事務官とは思われない柔軟な対応に助けられた事も何度かあった。 

マグデブルグ大学訪問

6月も末になり、いよいよマグデブルグ大学訪問の時となった。工学部代表団のメンバーは学部長の一宮亮一教授、機械システム工学科の長谷川富市、原利明両教授、電気電子工学科の佐藤孝助教授、それに新設機能材料工学科の筆者である。フランクフルトからベルリンに飛び、ベルリン工科大学訪問の後6月28日にヨーロッパ特有の伸びやかな風景の中マグデブルグ駅に到着した。 Wiele 教授と Wolf 教授が百年の知己を迎える如くに迎えてくれた。町並みも緑も美しかったが、予想に反して35度程の異常な高温も我々の滞在を歓迎してくれた。ドイツではタクシーもベンツであるが、空調は無いのが普通であり、大学の建物にも(コンピューター、精密実験機器類等の在る部屋を除いて)空調は無い。しかしゲストハウスはなかなか立派であり、中にカフェテリアが在り、ゆっくりと食事をしビールを飲めるのが有難い。果物も豊富でそれぞれ美味であり、ジュース類は当然本当のジュースであり、ソーセージ、ハム、チーズ類はもちろん美味い。カフェテリアの女子職員が毎朝焼いてくれるパンが又このうえなく美味しい。

 翌29日より公式行事が始まる。先ず Maas 氏の国際課を訪れ多くの打ち合せをし、話に花を咲かせる。午前は機械工学部見学(筆者は自然科学部の物理教室に出かけ準結晶の多型に付いて講演)。午後は「技術革新と事業財団センター」に在る「技術供与センター」を見学。ドイツ全土に160余りも在るという、日本の「地域共同研究センター」に一応対応するこの機構はしかし大学と企業(と州政府?)が参画し運営する点で構想も規模も異なっている。マグデブルグ市郊外に5km× 2kmぐらいの敷地を確保し(東ドイツ時代に地権が無くなっているので、面倒が起こりにくいのだそうだ)、その中心に文字通りセンターとなる巨大な研究用の建物を建て、それを研究室として希望研究者に貸出す。一方センターの周囲には企業が研究所、実験棟等を各々確保し、官民による研究学園都市の様なものをつくる計画のようである。現在は中心となるセンターと宿泊施設の一部が建設中であったが、なによりもその構想の気宇壮大さと社会の大学に対する厚い信頼と期待、再統一ドイツの将来に向けての国を挙げての意気込み等が感ぜられた。「日本の企業はこの様な産業の基盤となる基礎的研究に投資しない」という日本批判とも日本なにするものぞとも受け取れる発言がこの組織のトップから出て来るなど鼻息も荒い。マグデブルグ市に在るマグデブルグ大からこのセンターへの往復の途中幾つかの東ドイツ時代の工場が放置され荒れ果てている姿が痛々しく対照的であった。旧い施設は改善しても効率が悪く、旧いものは捨て新しい施設を作る方針なのだそうだ。

夜はキャフェテリアにて歓迎パーティー。ゲストハウスにキャフェテリアが在ると歓迎する方もされる方もたいへん有難い。学長の J. Dassow 教授(名簿では、計算機工学科の現職教授でもある)、数人の副学長(各々現職あり)、関係学部長、関係教授、国際課の数人等が我々を迎えてくれた。特に堅苦しい行事は何も無く、Dassow 氏が「この様な会でなければこれだけのメンバーが一同に会することは滅多に無い」とユーモアたっぷりに短い挨拶をして始まった。次々に人を紹介され、話に花が咲いているうちに時間が経ち閉会となった。

翌30日は、午前 Wolf 教授の案内で医学部見学(原教授が新潟大学のバイオメカニクスの研究に付いて講演)。本学の脳研に対応する神経生理学関係の大きな研究施設が在り、最新鋭のMRI,電磁気下の脳の反応を調べる装置、PRM、多数のワークステーション等々を(医療用とは別に)研究用に整備し、体制を整えつつあった。医学部の建物は、いつ頃のものか、なかなか風情がある。午後は郊外の「技術供与センター」に出かけ(制御並びに通信工学の P. Hauptmann 教授がここに結構な広さの研究室を構えている)、長谷川教授が粘弾性流体に関して、佐藤助教授が半導体レーザーに関して講演を行なった。夕食後には一般教職員学生向けの夜のセッションがあり、一宮教授が新潟大学と本工学部に付いて、筆者が新潟県と新潟市に付いて話をした。スライドを準備して行ったにもかかわらず、夜の8時でも太陽は燦々と照りおまけに暗幕が無く、困ってしまった。講演後 Wiele 教授、Maas 博士等と市の中心部に出かけ(徒歩5分)、オットーフォンゲーリックの像の前で写真を撮り、隣接する旧市庁舎の前でビールを飲む。

さて7月1日午前は最終ミーティングをした後、11時より学部間協定の調印式となり、一宮亮一本工学部長、Peter Kaeferstein機械工学部長、 Ulrich Korn電気工学部長、Thomas Strothotte計算機工学部長 、が日本語文と英語文で書かれた協定書にサインした。調印式には新聞社のカメラマンがたくさんやってきて、写真やらビデオやらを撮って行った。サインの後に記者会見をすると云う打ち合せであったが、不慣れな我々が気乗りしない顔をしていた為か、それは無かった。翌日の新聞には写真入りでこの日本の大学との学部間協定が報道されていた。下交渉の段階では、マグデブルグ大学側が一学部と三学部(機械工学部だけでその規模は本工学部に匹敵する)の間の調印に難色を示していた時期もあったのでこの調印式で筆者は感慨深かった。日本の大学が日本語文の協定書を要求するので筆者が困っていたところ、「協定書は英語文と日本語文の二部で良い」と助け船を出してくれたのもドイツ側であった。日本が日本語にこだわればドイツは当然ドイツ語にこだわるはずであり、条文の下交渉を含めて英語文で全てのやりとりをしている当事者(特に条文まで自前で作っている日本側の教官)にとって自国語訳版しか分からない不都合不合理な事態となる。筆者は、英語版二部を正本とし、日本語版とドイツ語版は各々の国内向けの副とする可能性も検討していたが、法学部の鯰越教授から好ましくないと示唆されていた(鯰越教授には色々教えていただきお世話になった)。これらが好ましい形で実を結ぶに至るには、相手方(日本側)の状況を理解した上でメンツにこだわらず、形式よりも実質を重んじ柔軟な判断が出来るドイツ側に負う部分が大きい。日本語版の内容に付いては Maas 博士の”信用する”の一言で終っていた。

 午後は計算機科学部を見学。簡単なレビューの後、クレーコンピューター等を見て回った。協定書の調印が終り連日のスケジュールの疲れが出、おまけに外気の高温と空調室の冷房との繰り返しの中で苦しかった。

翌7月2日は土曜日であり、午前は自由時間、午後は市内と郊外見学。インテリジェントなガイドさんによる、オットー大帝に始まり度々の壊滅的破壊と再建の歴史をもつマグデブルグ市の話は迫力があった。市の中心にある11ー12世紀の修道院では中世に舞い戻った夢のような一時であった。郊外のシップリフトは、大陸中央運河とエルベ河への運河の水位が20m程ずれているのを、エレベーター式巨大桶で船ごと上下し接続するもので、ドイツの技術力の高さが感じられた。 夜は計算機科学部の F. Stuchlik 教授の家に招待された。私邸は再統一ドイツになってからもまだ少数の様であるが、夫人の家庭料理によるガーデンパーティーは楽しく、日が沈むのが10時頃であるにもかかわらず暗くなる迄おじゃましてしまった。

 3日は朝から市の南西約30Kmにあるハルツ山脈に大学の車で出かけた。途中のアウトバーンの乗り心地も広大な麦畑も山裾のワーニゲローデの美しい町並みもハルツ山の山懐もマグデブルグの魅力を語るに充分素晴らしく、我々はいつの間にかマグデブルグ市の持つ魅力に引き込まれて行くのであった。

 7月4日朝、Wiele 教授、Wolf 教授、Maas 博士と名残を惜しみ、約一週間のマグデブルグ滞在を終え、同市駅を立った。筆者らはその後 シュツットガルト大学、アーヘン工科大学を訪れ帰国した。

国際交流の展望と課題

これでマグデブルグ大学との学部間協定の締結は一応済んだわけであるが、残された課題も多い。協定書には日本側の国際交流の為の財政基盤がきわめて弱いことに配慮して具体的な内容は何も盛り込んでいないが、ドイツ側が求めているのは実質的な国際交流活動である。日本国内で通用している形ばかりのセレモニーは彼らには極めて理解しにくい。先の見える Maas 氏はこれが事の終わりではなく事の始まりであることを強調していた。従って当然のことながら、今後この絆をどう現実化して行くかが課題となる。

 先ず、同大学の新潟大学への姿勢は最初から一貫して大学間の交流協定に向けたものであった。しかし昨年来訪した時点では、受け入れ体制が出来ているのは工学部だけであったので、工学部よりの提案を受け入れ、学部間協定を大学間協定へのステップとすることで合意して来ている。学部間協定が実現した今、この流れを大学間交流にどう繋げて行くかが課題となる。

 交流の中身についての課題は多い。先方は7年程前に一宮教授が日本学術振興会の支援を得て Wiele 教授を招聘した実績を評価している様であり、昨年来日した時にはオットTーフォンゲーリック奨学生一名(ドイツ10ケ月滞在)を工学部にプレゼントした。新潟大学に対応するものが無いとの筆者の(苦しい)釈明に対し、日本の大学の財政が思いの外貧困であることを理解した上で、カウンターバランスは求めないとの大様さを示してはくれた。事実国際交流は細かいカウンターバランスを求めてはとても成立しない。国際的な寛容とかなりのドンブリ勘定が必要である。この点に関しマグデブルグ大学は相当な大人である。今年の秋には少なくとも2ー3人の研究者が新潟大学に派遣されて来る。1ー2名は工学部関係であり、1名は脳研関係者である。同大学は医学部との交流も強く求めており、人文学部、自然科学部等も積極的である。新潟大学の学生研究者の訪独はいつでも歓迎される。しかし、いくらどんぶり勘定と云っても、財政はかなり極端にドイツ側に依存している。日本は過去にフンボルト奨学金やフルブライト奨学金に大変お世話になっているにもかかわらず、経済大国になってもホオカムリの現状では情けない。これは国際交流を行なうにあたり、いつも非常に恥ずかしく思う点である。新潟大学国際交流基金にも奨学生制度が欲しいし、国際的にもフンボルト奨学生に匹敵するものが無いと、はなはだ肩身がせまい。日本学術振興会の近年の充実にはめざましいものが在るが、まだフンボルト財団に対等とはみなされていないようであり、一層の充実が望まれる。

 マグデブルグ大学は、新潟大学(実労は工学部?)が夏の学校を開催してくれることを強く希望しており、工学系を中心に15名程度の学部学生はすぐにでも集まるとの勢いである。ドイツの今後のライバルである日本への関心はかなり高いようである。学部学生をアトラクトし動機付け(stimulate)すればそれが将来の大学関交流の大きな流れを作って行くという、国際交流の見通しを持っている様であり、アメリカを始め多くの国の大学との学部学生レベルでの交流計画を着々と実行しつつある。なかなか計画は遠大である。筆者の検討によれば夏の学校の新潟開催は大変ではあるけれども実行可能な状況に在る。しかし、夏の学校開催には全学的な協力を仰がねばならない面も有り、そう簡単では無い。

 最後に、国際交流は実りも多いが道を拓く時の苦労も多い。この様な時期に新潟大学に国際交流課が無いのはいかにも残念である。例えば、虎の子の留学生センターを国際交流センターに昇格させ、国際交流への支援体制を作って行くことが出来れば、新潟大学の国際交流の巾は飛躍的に広がるであろう。教官の家内工業によった方式では、マグデブルグ大学のような本格的に国際交流に乗り出している大学の交流の巾と厚みにとても対抗出来ないのが現状である。マグデブルグ大学の国際課のディレクター Maas 氏の活躍は新潟市の国際課のかっての市岡政夫氏(現国際情報大学教授)のそれを思い起こさせる。新潟大学としても、そろそろ国際交流に向けての体制を本格化し、大きな実績を上げる時期に来ているのではないだろうか。

(平成6年9月)