1999年マグデブルグ大学サマーコース
Otto-von-Guericke-Universitat Magdeburg Summer Course 1999
レポート集

参加学生の感想文集:赤川君 岡崎君 角田君 吉田さん 荒沢さん 佐藤君 宗村君 森君 深井君 須藤君 星君


引率の坂本先生(機械システム工学科)の道中日記


8月25日(水)

 見送りのWisweh先生と一緒に坂本は内野駅を出発。荒沢さんも合流。絶対的な重量はそうでもなくても女性にはスーツケースを運ぶのは辛いようだ。ここでは手伝うが、この後はオジサン?は引っ込むことにして日本男児のエスコートぶりを観察することにしよう。新大前駅で今泉先生と合流。
 13:00前、新潟駅に到着。13:10学生たちと合流。佐藤先生とWisweh先生に見送られて13:23のあさひ318号で出発。自由席であったが、皆固まって席を確保でき、さながら修学旅行状態であった。車内のスーツケースの置き場には手こずったが、車掌さんのアドバイスで何とかなった。燕三条駅で2名合流。15:32東京駅到着。
 木村君は10月からマグデブルグ大への留学が急遽決まったため、当日朝早く出発して大使館へビザの申請をしてから東京駅で合流するというアクロバットの予定。ところが、強運なことに彼が用事を済ませて東京駅構内を移動中に、我々一行とばったり出くわしたのだ。お互い驚くことしきり。これで全員揃って成田駅に向かえることになる。ラッキーボーイが居るので、この後もマイナートラブル程度があっても何とかなるであろうと予感。 成田までは快速を使ったが、ずっと立ちっぱなしになり、皆は結構きつかったようだ。「でも成田エキスプレスは高いのでこれぐらいは仕方がない」とは皆の弁。
 17:25成田駅で降り、東急成田駅を越えてホテル成田東急までのシャトルバス乗り場へ行く。地図では近いが、この階段の登り降りが相当きつかった。皆慣れないスーツケースで大変だったようだが、そんな中で若干名は女性軍が四苦八苦しているのに気付いたようだ。頑張れ男性軍。
 ヘトヘトになってシャトルバス乗り場に着くが、さらに運悪く待ち時間が1時間弱。食事のために解散するには時間が短いので、コンビニへ飲み物を買いに行く程度にして、その場で待機。一般の客も増えてきて、全員揃ってシャトルバスに乗れるか心配だったが、シャトルバスにしては珍しく大型バスだったのが幸いしギリギリで全員乗ることが出来た。
 成田空港周辺のホテルは場所柄高級ホテルが多く、当該のホテルも例外ではないが、生協を通してビジネスホテルと同じような格安で泊まることが出来た。ホテル内のレストランは高価なのだが、何人かはホテルの高価なカレーライス(メニューの中で一番安いが、ホテルのカレーは結構旨かった、とは学生の弁)に挑戦したようだ。シャトルバスで成田駅周辺に戻る者も居た。今泉先生と坂本もシャトルバスで成田駅周辺に戻り、「日本を離れる前に」ということで和食を選んだ。翌朝の引率の動きをよくするためにコンビニで朝食のパンなどを用意。
 ホテルに戻り、坂本がプールで一泳ぎして来ようとすると、深井君が面白そうなので大浴場へ行くと言う。旅はそういう精神があった方がよい。二人で別館まで出かけて堪能した。その後、最上階の眺めと、レストランの値段を調査して眠りにつく。

8月26日(木)

 長い一日である。ドイツは日本より時計が7時間(サマータイム)遅れているので、この日は24+7=31時間もあることになる。現地に遅くに到着するということは、殆ど徹夜に等しいので、ハードな一日である。着く頃には体もドロドロになってくるので、朝にはシャワーを浴びておいた。気の効いた学生もそうしていたようだ。
 ホテルから成田空港までは9:02のシャトルバスの予定だったが、今泉先生の直感で大事を取って8:30に変更してあった。8:20に全員集合。バスが来てみると、「新潟大学御一行様」となっていて、ホテルはバスを一台用意してくれたようだ。これまた修学旅行のようだ。ここで今泉先生の予感が的中した。空港までの道が混雑し、空いていれば10分で行けるものが30分もかかった。「早くしておいて良かった」と胸をなで下ろした。
 空港に着いてみると、受付カウンターを探すのに時間がかかったが、探し当ててみるとまだ受付が始まっておらず拍子抜けで少し待つ。受付が始まり、説明を受けてから荷物をチェックイン。ここで、宗村君の荷物が探知機に引っかかる。何かと思ったら「百円ライター」であった。引火性があるので貨物室には入れられないとのこと。しかし、あの画面上でよく見つけるものだ。乗り換え時間は1時間強しかないので、スーツケースには積み替えを急がせるために「クローストランジット」のタグが付けられている。
 搭乗手続きまで時間が出来たので、マルクへの両替と、朝食を取ってもらうために一旦解散。深井君は前夜のハンバーガーが離日前にしては寂しすぎたそうで、日本で最後の食事として空港内テイクアウトの「ネギトロ丼」を食べている。これはお薦めである。
 ここで今泉先生のビデオカメラが急に動かなくなったことが判る。空港の郵便局から新潟へ送る。今泉先生がスチル担当、坂本がビデオ担当ということに。
 いよいよ、エールフランス275便@B747-400へ乗り込む。我々の席は同じところに固まっていたので、女性3人を3人掛けの所に集める。予定通り離陸。時折乱気流があったが、皆はそれほど苦にしていなかったようだ。機内食もまずまず皆の口に合ったようだ。2度目の機内食がかなり早かったので、到着の少し前、次の行動に備えて誰ともなくギャレーに食べ物をもらいに行った。皆ハードスケジュールを自覚しているようで頼もしい。コンビニおにぎり、カップラーメン、サンドイッチ等があったようだ。
 AF275便は定刻にパリのシャルルドゴール空港に着く。EU圏は入国手続きが共通なので、パリでEUへの「入国?」手続きをする。タイムロスが心配。機体は予定外のCゲートに付けられ若干混乱したが、今泉先生の機転で無事切り抜ける。手荷物のチェックインで赤川君が探知機に引っかかる。結局何も見つからず、「もう行っていいよ」と言われる。フランスのお国柄か。
 せっかくクローズトランジットをやってのけたというのに、肝心の国内線AF2434が「他機の接続待ち」でまだ出ないと言う。のらりくらり待たされること、なんと1時間。パリの空港なので、電話もジュースの販売機もフランであり、何も出来ない。今更免税店にも戻れない(免税店ならクレジットカードが使えるのだが)。
 AF2434@B737がようやく離陸。737クラスは小さいながら加速、上昇角、旋回等の機動性も良く気に入っている。比較的下がよく見えたので、さながら遊覧飛行となる。国内(EU内)線では珍しく機内食が出たが、リゾットは多くの学生の口に合わなかったようだ。ドイツのテーゲル空港への着陸アプローチはベルリンの市街地の真上を超低空で飛ぶので非常に怖い感じがするが、彼らもそう感じたようだ。着陸する頃には夜景になっており、雨が降っていた。が、あまりの疲れと眠気で村中君は雨に気付かなかった。同様に坂本もかなり限界に近かった。1時間遅れで着陸。しかしこれだけでは済まなかった。スーツケースが出てくるベルトコンベアーが再三故障で止まり、全員の分が出てくるまで30分以上はかかった。皆、朦朧としており目を閉じると立ったまま寝てしまうので、必死で目を開けているように努めた。
 午後9時半だったろうか?やっとロビーに出てみると、Mrs. Willmsが迎えに来てくれていた。判っていたことだが、2時間待ったということで非常に申し訳なかった。ともあれ再会を喜んだ。
(ルフトハンザならダイヤの関係もあって、夕方にはテーゲル空港に降りられる。同日中にマグデブルグ入りもできる。今回ルフトのチケットを取れなかった事は非常に悔やまれる。が、フランスもちょっとだけ寄れたので良かった?)
 Mrs. Willmsの案内で、タクシーに分乗して市内のユースホステルに向かう。話には聞いていたが、六花寮といい勝負のかなり凄いところである。(日本の某旅行ガイドブックには、このユースホステルはあまりにも設備が・・・なので、泊まってはいけないリストに入っているそうだ。確かにそうかも知れない。)どのみち、皆くたくたに疲れて眠るだけで精一杯であったろう。事前に聞いていたとおりシャワー室の鍵が壊れていたので、女性3人に先に使ってもらい、今泉先生と坂本が廊下で見張りをしていた。坂本は床に座り込んだ途端に半分寝ていたのだが・・・。続いてシャワーを使うと、やはり聞いていたとおり途中でお湯が水になった。それから、部屋の鍵の古めかしさが凄かった。さらに凄いのはキーホルダーで、長さ30cm程の金属パイプで出来ていた。確かにこれなら無くすことはあるまい。ベルリンの一般のホテルは非常に高価なので、やはりこのユースホステルを使うのが得策と言うことになろう。
 今泉先生と坂本でミーティングを済ませて寝たのは現地時刻の午前1時。体はまだ7時間先のままだから、朝の8時まで徹夜したことになる。

8月27日(金)

 ユースホステルにて、男性軍は二段ベッドの6人部屋だったが、覗きに行ってみるとこの状況をそれなりに楽しんでいるようだった。朝、廊下でシャワー給湯用のタンクを発見。その小ささに学生と唖然。これだと途中で水になるのも当然で、納得してしまった。こういう時、理系の学生は妙に物分かりがいい?
 9時に遅い朝食。ドイツでの朝食に皆興味津々。坂本はドイツ人がやるように、「パンにジャムとハムを一緒に挟んで食べる」のをやってみせた。皆最初は気持ち悪がっていたが、やってみると美味しいということが判ってもらえた。ドイツはジャムが美味しい、パンが美味しい、と色々気に入ったものが出来たようだ。
 10時少し前にMrs. Willmsが迎えに来た。この日は一日案内して下さった。手配してくれた観光バス、ガイドと共に、ベルリン観光に出かける。特にブランデンブルク門は東西統一前は行けなかった場所で、皆大変感慨深く写真を撮ったり触ったり、くぐったりしていた。
 ガイドと別れて、ランチとしてソーセージをパンで挟んだものとコーラを屋外の立食で頂く。ソーセージの旨さと大きさには皆驚いたようだ。売店で買った飲み物が「ぬるい」のが珍しくない事にも皆気付き始めたようだ。日本は物価が高いが、温度管理も値段のうちなのだということを悟ったようだ。
 食べ終わるとそのまま午後の部に移行し、首都移転に伴いリフォームした国会議事堂を一般公開していたので中を見せてもらう。素晴らしい建物であり、非常に貴重な体験であった。
 その後、ユースホステルに戻り、預けてあったスーツケースを転がしてベルリンのツオー駅に向かう。バスに乗るには近いし、スーツケースを転がすにはちょっと辛い、という微妙な距離であったが、旅行中で一番辛かったのはこの区間の移動であった。
 電車まで時間があったので、駅で少しだけ自由時間を取る。皆見たことのないジュースや甘味に挑戦したり日用品を買ったりした。斉藤さんが買ってきた洗濯用洗剤が用途違いで、Mrs. Willmsが交換してきてくれた。ここで皆、ドイツの洗濯用洗剤の2大ブランドを知る。
 16:37の列車にてマグデブルグに向かう。17:55にマグデブルグに到着する。Dr. Mellmannと、ちょうどマグデブルグに寄っていた化学システムの清水先生、の出迎えを受ける。荷物は荷物下ろし要員の学生と女性3人を乗せたトラックでゲストハウスまで運んでくれた。残った我々はMrs. Willmsと出迎えの2人と一緒に大学まで25分ほど歩き、全員揃ったところでゲストハウスについての簡単な説明を受けた。部屋割りは、学生は原則2人部屋であった。(学生が奇数なので女性1名が一人部屋)
 17:00ゲストハウスのカフェテリアでは腕利きコックのレナさんがディナーを用意してくれており、皆で美味しく頂いた。
 19:40岡崎君、村中君、カールシュタットへ買い物へ。20:00閉店で間に合わず。
 20:00頃、星君、宗村君、ダメ元でカールシュタットへ。間に合わず。近所のパブへ。
 今泉先生と坂本は「帰宅チェック表」を作る。坂本の部屋のドアを連絡ボード代わりにして、その他に色々貼り付ける。
 夜中、坂本が寝ていると、岡崎君が部屋のブレーカを落としたと言って来た。同室の村中君は強靱な精神の持ち主であり平気で寝ている。ドライヤー使用時に電圧変換器がうまく働かず、ダメ元で直結したらしい。ドライヤーは当然即死。
坂「あのねー、100Vのドライヤーは220V用の半分の抵抗でしょ?2倍の電流流れるから、ドライヤー焼けて、焼け切れるまで時間がかかるとブレーカーも落ちる・・・判るでしょう?学科どこだっけ?」
岡「電気電子です・・・・判ってたんだけどやっちゃった・・・」
坂「(ここで目が覚めた)あー!岡崎君か!電気電子?!(釈迦に説法だ)そうだ佐藤先生のとこだー!二文字君の後輩かぁ!じゃあ許す・・・(意味不明)明日Mrs. Willmsに言うけど、配電盤に鍵かかってるから復帰するのは月曜かなぁ」
 幸い、コンセントが一つと、ベットランプが別系統で生きていたので、週明けまで凌いでもらうことにする。
 ここで学生達の変化に気付いた。最初は、
「日本語がどこにもなく、英語とドイツ語だけで何とかなるのだろうか?」
だったものが、
「ドイツ語はかなり厳しいが、英語なら絶対何とかなる。」
と、妙に開き直って来たことである。当然誰も日本語には頼ろうとしなくなった。
大変な進歩である。

8月28日(土)

 7:30赤川、白井組が部屋の鍵をオートロックで閉じ込んでしまった。2人とも部屋の外にちょっと出たところで、なんと突風が吹いてドアが閉まってしまったのだ。幸い2人とも服を着ていた。(閉じ込みは短パン一丁の時によくやるという統計?がある)お金を貸して、早朝の買い物に誘おうと思ったが、白井君がスリッパ!を履いていたのであえなく中止。2人ともテレビ室で難解なドイツ語の番組を見ていて可哀想だったのでコーヒーを入れてあげた。彼らは朝食までの2時間をここで過ごしたようだ。怪我の功名で、赤川君はドイツのテレビ番組に詳しくなり、時々テレビ室に居るのを見かけるようになった。
 朝食は9:30にゲストハウスでとった。10:00にMrs. Willmsが来てくれて夏の学校のプログラムについてのミーティングがあった。鍵の閉じ込みに関しては、土曜日にもかかわらず間もなくMrs. Willmsが手配してくれて開けてくれた。(掃除人用のマスターがどこかにあるのだろう)
 早朝にシャワーを使ったとき、シャワー室に腕時計の忘れ物があるのを発見。市内ツアー集合時に訪ねてみると宗村君のものであった。
 市内ツアーに出発したが、ここで、機能材料工学科・合田先生のところのドクターコースの五十嵐君が合流した。彼は春からこちらにいるのだが元気そうだった。市役所近辺でガイドの方と合流し、シティホールやオットー・フォン・ゲーリックの像などマグデブルグの歴史について本格的な説明を受けることが出来た。このとき、学生達はテレフォンカードを購入することが出来た。
 市内中心部の昨年秋に出来たばかりのショッピングモールALLEEで昼食を摂った。
 少しの自由時間の後、コンサートホールになっている教会Monastoeryを見学し、オルガンコンサートを体験することが出来た。パイプオルガンの音は壮厳かつ迫力があり、皆圧倒された。奏者は体中を使って演奏しており、圧縮空気を操る職人、魔法使い、あるいは非常に忙しいオペレーターという感があった。
 その後、エルベ川の川岸にある公園を散策ながら帰ってきた。帰りにはついでに大学内を少しツアーした。星君、深井君は、この夜にこの辺りでロックコンサートが開かれる事をポスターで知る。
 ゲストハウスの夕食 ドイツ式の簡素なもの 酢漬けの魚(こはだ?と思われる)とマリネにした鰯のような魚。この酢漬けの魚は元々日本人一般に評判が良くないのだが、やはり学生達にも人気がなかった。柔らか過ぎで気持ち悪く、酸っぱすぎるのだ。木村君だったか「〆め過ぎなのだ」という鋭い意見があった。
 夜 星君、深井君がエルベ川沿いのコンサートに出かける。そこで、なんとSchonebeck(シュニベック)のSK社の社長Dr. Plenikowski(プレニコフスキー)と会ったそうで、ご馳走になったらしい。Dr. Plenikowski夫妻来日時には坂本研究室のコンパに招待したことがあり、彼らは日本で既に面識があったのだ。9月10日には夏の学校一同も氏の会社の見学とプライベートのパーティに呼ばれていたのだが、早くもここで再会するとはお互い驚いたことだろう。
 夜 分析がピカイチの村中君が洗濯機と乾燥機のための操作法マニュアルを作ってくれた。皆使い方が判らなくて悩んでいたので、有り難かった。早速連絡ボード代わりにしているドアに貼り付ける。

8月29日(日)

 朝、帰りの列車(マグデブルグ→ベルリンツォー)のチケットを紛失防止のために一旦回収した。
 岡崎君のヘヤードライヤーは滞在中Mrs. Willmsが貸してくれることになり、この日に持ってきてくれた。坂本もシャンプーを買い損ねたが、週末は店が閉まっているし、困っていたが、一回分のパックを持ってきてくれた。いろいろと助かる。
 朝から郊外のロシア軍の元駐留地を再整備した土地で行われているBUGA99(花と緑の博覧会のようなもの)に連れていってもらった。フランクシュワートともう一人(去年の夏の学校に来ていた学生)も一緒であった。
 全木製の全高60mのタワーは圧巻であり、市内を一望できた。またタワー内は自然科学館という感じで面白い科学実験のデモが行われていた。外に出るとドイツ人の花好きに納得するような会場風景が広がっていた。赤キャベツや赤シソが紫の花としての扱いを受けていたのには驚いた。
 18:00 ゲストハウスのカフェテリアで行われたウェルカムパーティーには,副学長が参加される予定であったが都合で来られなかった。各自、英語と若干のドイツ語で自己紹介をした。
 ドイツ側スタッフの参加者はMrs. Willms、ドイツ語授業の先生Mrs. Fandler、Dr. Mellmannの3名であった。フランクシュワートやシュテファンバットら去年の夏の学校に来た学生らも一緒で、日独総勢25名程で楽しい時間を過ごした。途中、新潟大学を訪問されたことがあるProf. Gabbertも廊下から覗いて坂本を見つけてくれた。
 宗村君と斉藤さんは浴衣で参加し、なかなか気が効いていた。Mrs. Willmsがギターを持ってきてくれて、ロックギタリストの星君はおなじみのフレーズを蘊蓄の効いた解説付きで披露してくれた。20:00が定刻だったようだが、盛り上がりっぱなしで、まるで終わりそうもないので、時間切れということで三三七拍子で閉会した。終了後、外へ飲みに行った学生も多かった。
 我々は全員フォーマルな服装で参加したが、ドイツ側の学生は意外に比較的ラフな格好であった。


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8月30日(月)

 8:50にMrs. Willmsが迎えに来て語学の教室へ案内してくれた。9:00から最初のドイツ語の授業を受けた。2時間半を休憩を挟み45分ずつ3回に分けて行ったが、特に問題もなく終了した。
 授業終了後、Mr.Hammerが迎えに来て、彼のオフィスの隣の会議室を使わせてもらう。PCを持参してきた坂本、村中、木村の3名が行った。工学部のTJWSにつないで、自分のメールを読むことが出来た。IPアドレスは1つしかもらえなかったので3人でつなぎ変えて使おうとするが、いちいち面倒なので、木村君はコンピューターセンターで英語でやるらしい。Mr. Hammerのフロアの会議室は、秘書に鍵を開けてもらわないといけないので、オフィスタイムの7:00〜15:30までしか使えない。事実上朝の7:00〜8:30までしか使えず、全く持って不便である。海外滞在中はインターネットが最も強力な通信&情報収集手段なのでゲストハウスには今や必須である情報コンセントを付けるべきである。特にこのゲストハウスは1階がインターナショナルオフィスで足下までLANが来ているのに実にもったいない。また、同様に新潟大学もそのようになれば訪問者の評価は高まるであろう。
 午後からはNatural Science学部の2つの研究室を見学した。粒子の挙動の計算機シミュレーション、化学反応の可視化、というテーマであった。
 引き続き夕方はMrs. Willmsが迎えに来て、の大きな教会、マグデブルグのシンボルとも言えるCathedral(通称=ドーム)を訪ねるツアーに出かけた。ガイドから詳しい説明を受けることが出来た。残念ながら教会の塔は改修中であり登る事が許されなかった。
 その後は少ないながら自由時間となった。
 ゲストハウスの食事は昼は七面鳥のクリーム煮とライス。夜は、サバのスモークが出た。サバのスモークは日本人必食の逸品であり、坂本の大好物である。学生達もその旨さに驚いていた。コックのレナさんにも「またスモークを」とリクエストしておいた。
 ちなみに、ここのカフェテリアの週間メニューはインターネットのホームページで公開されている。学内の方はこの献立表を見て気に入ったものがあるときに食べに来たりするらしい。
http://www.uni-magdeburg.de/rgottsch
 この日、Mrs. Willmsに談判して、ようやくレンタルの冷蔵庫の鍵を借りることが出来た。夕食後、坂本は街に出て、スモークのニシン(ブックリング)とビールを買ってくる。学生達も冷蔵庫が来たのでいろいろ食べ物、飲み物を試したいようで、いろいろ買い込んできた。なぜか坂本の部屋で宴会が始まってしまう。隣室の今泉先生にはうるさくて迷惑をかけてしまった。スモークはやはり絶品で大評判。ビールやワインは銘柄により味のばらつきが極端だが、美味しいブランドも皆少しづつ判ってきたようだ。研究室における実験のトライアンドエラーもこれぐらい果敢にやってくれると申し分ない。

8月31日(火)

 朝、7時に村中君と一緒にMr.Hammerのフロアの会議室へPCを持って行き繋ぐ。(日中はスケジュールがびっしりなので朝しか使えない)村中君はUNIXに繋いでいるそうでノープロブレム。坂本は工学部のTJWS経由ではファイヤーウオールに引っかかって(外部からの侵入者と見なされるようだ)メールは持ってこれるが、TJWS経由での送信が出来ない事が発覚。無料メールアカウントHotmailから送信する事で解決。
 ドイツ語授業の2日目は、五十嵐君の他にインドから来たBose氏も合流した。だんだん覚えるべき単語が増えてきた。
 午後は電気系の建物を見学した。学生達は聞いている内容が分野によって、よく判る者と、そうではない者が極端だったという印象。
 見学が終わり、間髪入れずMr. Hammerの案内で全員でコンピュータセンターに行き、メールの出し方受け取り方について説明を受けた。(ここではドイツ語ウインドウズなので英文で打つしかないが)メールを出し終わったものから順に自由行動へ移った。
 ゲストハウスの食事は昼はハムカツとパスタ。夜は、前日好評だったサバのスモーク(絶品)に気を良くしてか、ニシン科の小魚のスモークが付いたがこちらも大変好評であった。
 夕食後、今泉先生と坂本は閉店間際の街に出て、ローストポークがあまりに旨そうなので買ってきた。帰りに土砂降りに遭ったが何とか帰って来た。一部の学生も濡れたようだが皆元気である。今泉先生と打ち合わせを兼ねてローストポークでビールを一杯やる。これも絶品。学生達の部屋でも宴会があったようだ。
 夜は大学内!のディスコ(火曜と土曜に営業)が夜中までうるさかった。

9月1日(水)

 朝、7時に村中君と一緒にMr.Hammerの会議室へ行きメールやインターネットを使う。日本のニュースも若干判った。佐藤先生に1回目の日本語のメール(このレポートのここまでのところ)を送る。
 午前中はドイツ語の3回目。今回は2人の先生が入れ替わりで担当。今泉先生と坂本は副学長訪問のため途中で退席。
 11時に今泉先生、坂本、Mrs. Willmsと3人で副学長Prof. Groteを訪問。元々は機械系と関わりがある先生であった。交換制度の書類にサインを貰う。新潟大学関係のパンフレットとちょっとしたお土産を差し上げた。来年は新潟で夏の学校を開催できるであろう事を話す。4人で記念写真におさまった。
 その後、Mrs. Willmsのところへ行き、残りのインターナショナルオフィスヘッドDr. Frau. Reckert(レカート)のサインについて相談。Dr. Frau. Reckertは20日まで留守なのでサインをあとで頂いてから、日本に送って貰うことにした。今週来週のスケジュールについても話した。
 Mrs. Willmsに頼んで、冷蔵庫の鍵を2つ追加で貸して貰った。ドイツは湿度が低いので喉がよく渇く。また、日本人はぬるい飲み物は苦手なので冷蔵庫は必要であると思った。ドイツ人は飲み物が冷えていなくても全く平気なようで、ぬるい飲み物を飲む苦痛がなかなか判ってもらえず苦労した。
 ゲストハウスの昼食はシュニッツェル(ドイツ風の豚カツ)であった。これは日本人にとって最も無難なドイツ料理であるといつも思う。コックのレナさんをヨイショしたら厨房で作っているところを見せてくれた。衣の付き方や揚げ方が若干違うが紛れもなくトンカツである。カラシとトンカツソースが欲しいがここではそれは叶わない。
 午後はDr. Wiswehのホームグラウンドである研究室や工場を見学した。工作機や測定器は機械の学生にはなじみの原理であったが、その性能は新潟大学のものよりも高いものが多かった。坂本は久しぶりに機械油の臭いをかいでホッとした。加工や計測のデモをして頂き、特に機械系以外の学生には大変新鮮だったようだ。記念にオットー・フォン・ゲーリックの銅像のミニチュアを全員が頂いた。
 この日の見学は比較的早く終わったので、皆は日本へメールを出したり、街へ出かけたりした。坂本も星君、深井君と一緒に街に出かけた。2人とも湿度の低さで喉の不調を訴えており、薬局でドロップやうがい薬を探した。深井君は肌がかさつくのでローションも探していた。やはり湿度は明らかに低く体にも影響するようだ。カフェのガラスケースのケーキがあまりにも旨そうなので3人で3種類を試す。大変美味しいが我々には大きすぎる。こちらのショートケーキは日本のものの3倍のボリュームはある。殆ど一食分である。夕食が食べられるか心配しながらゲストハウスに戻る。
 コックのレナさんに、皆に評判がいいスモークをリクエストしてあったせいか、ゲストハウスの夕食にはサバ(マックレーラ)とニシン(ブックリング)のスモークが付いた。昼食に続き好評であり、レナさんも気を良くしていた。「最高だった」と言っておいたのでまた出るだろう。日本人の魚好きには呆れたかもしれない。
 夕食後、坂本は深井君と街に出て彼の買い物に付き合い楽しかった。帰りに深井君は大学に近い郵便局のキャッシュコーナーでクレジットカードを使って現金を引き出したが、割合すんなりと出来て拍子抜けした。
 帰ってきてから、木村君が10月からの留学のことで佐藤先生に日本語メールを送りたいというので、一緒に文書を作成した。
 丁度その時、ゲストハウスの道路側の遠くはない場所で花火大会のようなものが催されているのが窓から見えた。音は日本の花火と同じ、色も付いていたが、日本の花火と違って形というものがあまり無いようだった。
 宗村君の部屋に皆が集まっていたので、木村君と一緒に遅れて合流してみた。話してみると皆がビールやワイン以外にも色々な面でドイツを楽しみ学んでいるということが判り頼もしく思った。
 今回の夏の学校の事がこちらの地方紙に載ったとMrs. Willmsが教えてくれた。一部取っておいてくれるというので、日本へのいいお土産が出来た。
 学生15名は、「男性12人=2人部屋×6」で、「女性3人=2人部屋+1人部屋」となっており、女性の1人部屋は一週間おきのローテーションで運用しているようだ。本日一回目のローテーションがあった。

9月2日(木)

 朝、7時に村中君、深井君と一緒にMr. Hammerの会議室へ行きメールやインターネットを使う。Mr. Hammerはいつも様子を見に来てくれる。佐藤先生に日本語のメール(レポートのここまでと木村君からのメール)を送る。
 午前中はドイツ語の4回目。今回も2人の先生が入れ替わりで担当。後半の文法がますます難しくなってくる。今泉先生と坂本はDr. Pieper訪問のため途中で退席。
 11:00〜木村君の書類上の指導教官になると思われるDr. Pieperを訪問。シュテファンバット君と自然研の桝田先生のところに3ヶ月留学していた学生も同席。「8月23日付で自然科学研究科長にFAXで送られたDr. PieperのInvitation Letterの原本」を今泉先生が預かり、日本に持ち帰る予定。コピーも木村君に渡した。昨日記念に貰ったオットーフォンゲーリックのミニチュア銅像のもう少し大きいものを頂くが結構重く当惑。
 午後のラボツアーは昨日に引き続き機械工学部で、今日はProf. Ziemsのところでマテリアルハンドリング関係のラボを見学。ロジスティクスは機械系と情報系の境界領域であるように皆感じたようだ。
 今泉先生と坂本は終業後、Dr. MenzのプライベートキャンピングサイトへバーベQに呼ばれ、運河沿いでサイクリングも楽しんだ。運河とエルベ川とを船が行き来する際の水位差のため船を上げ下ろしするシップリフトを見た。新しいものも建設中であった。
 夕食後、学生達はシュテファンバット君らと共に学内のボーリング場で楽しんだ。その後、ドイツ学生とこちらの学生が宗村君の部屋に集まり、語り合っていた。様子を見に行ったつもりだったが、結局坂本も合流した。話は政治や言語文化の事にも及んだ。
 この日、夏の学校の事が載っている地方紙をMrs. Willmsから今泉先生が受け取った。小さな記事だが、来週は写真入りの記事でもう一度載るらしい。

9月3日(金)

 7:00過ぎ、岡崎君が「もしかしたら熱があるかも」ということで体温計を探しに来た。坂本と村中はインターナショナルオフィスのフロアで体温計の持ち主を聞いて回り、5分後には1Fの会計担当のMrs. Karlが持っていることが判り、体温計を借りた。36度4分でホッとしたが、どうもいつもの本調子ではないようだ。彼のことなのですぐに元気になるだろう。
 7:30村中君と一緒にMr.Hammerの会議室へ行きメールやインターネットを使う。
 Mrs. Muller、通訳の学生と一緒にMagdeburg Neustat駅へ歩く。30分ほど列車に乗った。Heldensleben駅からはドイツ語の先生Mrs. Fandlerとも合流し、バスで今世紀初頭から活躍した古い煉瓦工場まで行った。最盛期には日産6万個だったそうだ。この工場、驚いたことに昔のままの状態で今も稼働しており、SLの動態保存のようなもので、「動く博物館」なのだった。学校の子供達はもとより、たくさんの見学者が訪れるようである。
 見学の後、工場の裏庭に並べてあったテーブルとイスを借りてランチを取る。朝ゲストハウスを出るときにコックのレナさんが我々に持たせてくれたお弁当?は、パン、サラミ、オレンジジュース、ヌガー入りチョコ、バナナであった。
 学生と話していると、喉を痛がっている者が多いことが判った。空気が乾燥しているせいも大いにあるが、「皆仲良くなって会話が絶えないため、一日中喋っているからだ」ということもまず間違いなさそうだ。
 昼食後には工房に入れてもらい、皆粘土で思い思いの作品を作った。
 夕方、ランチが正直ちょっと足りなかったので、ゲストハウスに付いた直後に、宗村君、星君は日本から持参したチャルメラ、深井君はカップヌードルを食べていた。星君からチャルメラを一口貰ったらさすがに日本が恋しくなった。
 この後、各自ホストファミリーに迎えに来て貰い、48時間後、すなわち日曜の夕食後に帰ってくる予定である。

9月4日(土)

 ホームステイ

9月5日(日)

 坂本が19:30頃ホームステイから戻ってくると、半分位の学生が戻ってきていて、皆楽しい話を披露し合っていた。22:00過ぎになって全員が戻ってきた。
 この週末は大変良い天気であり、ヴェニゲローデ等の素晴らしい場所に案内して貰ったり、ステイ先でドイツの慣習に戸惑ったり、と色々な話題が聞けた。
 土曜日には宗村君が、ハルツ山の鍾乳洞で、例の「つらら」に頭をぶつけて1センチほど切ったが、ホストファミリーが消毒してくれて傷口も既に乾いていたので安心した。
 例えば坂本と赤川君は別々の飛行場でグライダーに乗った。ドイツではグライダーを始め航空スポーツがポピュラーで、ゲストのグライダー搭乗費用も25DM=1500円強であった。この日は風が強く、乱気流で酔ったが素晴らしい眺めと風切音だけの世界は最高であった。私が「エアロバティクスが好きだ」と言ったものだから彼は色々エアロバティックスのサービスをしてくれた。パイロットは笑っていたが私は死ぬかと思いシートベルトのリリースの仕方を何度も思い出した。強烈なGがかかったせいか、フライト中に回しっ放しのムービーの調子が明らかに変で、後日学生の様子を撮影できなくなるのではないかと心配したが、その後は動いている。赤川君の方は私と違って普通のフライトだったようだが、私以上に酔ったようで、フライト直前に食べたスパゲッティを危うく「再び見る」羽目になるところだった。着陸後、滑走路脇でしばらく横になっていたらしい。ウインチで10秒強の間に高度400mまで引き上げられる加速Gは、今まで乗ったどんな乗り物よりも凄かったと彼も言っていた。自分の目玉が加速Gで頭の中に引っ込むのが判るのである!
 このように、週末は信じ難いことに教官までホームステイ(大学スタッフ宅!)をさせられたため正直気疲れで疲労が倍増した。今泉先生はDr. Mellmann宅、坂本はMr. Kelling宅、で、双方のホストとも大変良くやってくれたが、それだけにホスト側も相当疲れたようだ。こういう場合、仕事相手というのは全くの他人より始末が悪い。お互いが24時間労働になってしまうからだ。こっそり聞いたのだが、我々引率教官へのホストファミリーはホスト側の希望ではなく、Mrs. Willmsが依頼したのだそうだ。やはりそうだったかと納得。そういう事は空気で判るものである。
 かくして旅程がスタートしてから2度目の週末も心身共に休む間がなく半ば朦朧と過ごした。引率教官は学生のホームステイ中は解放してくれないと過労死してしまうのではないかと心配した程だった。エスカレートして何でも詰め込むことに疑問を感じた。この点は次回の新潟側の計画に反映させて欲しい。


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9月6日(月)

 7:00村中君と一緒にMr. Hammerの会議室へ行きメールやインターネットを使う。
 ドイツ語の授業の前に、頭を怪我した宗村君の様子を聞くが大丈夫だった。
 ドイツ語授業は、前半が英語での東西統一にまつわるいろいろな話しとディスカッションでありDr. Wiswehから聞いていた断片的な話と符号したので興味深かった。後半はいつもの文法であった。
 午後はコンピューターサイエンスのProf. Smidの所で聴講する。バーチャルリコンストラクション(コンピューター画面上での建築物の復元)や、植物の成長シミュレーション等の動画を見た。記念に計算で作った草原の「絵」を皆で頂いた。CG、絵画、写真の間の子の印象であった。絵は2種類を何枚かづつ用意してあった。綺麗な絵だったので女性達は両方欲しがったが無理もないと思った。
 ゲストハウスの洗濯機と乾燥機は1マルク硬貨しか使えない。夜中コインが無くて洗濯出来ないといけないので、1マルク硬貨をストックして坂本のところで両替出来るようにした。
 この日が終わると旅程も半分なのだが、驚いたことに我々教官にとって、昼休みと、夕方が全てフリーになる初めての日であった。お陰で少しだけ体調が戻った。
 ゲストハウスの昼食は、肉のクリーム煮で美味しかった。が、付いてきたライスは「日本のご飯」を期待してはいけないのは当然である。塩コショウをかけて、ようやく食べられた。夕食には「煮たリンゴ」のデザートが付いて好評であった。

9月7日(火)

 7:00村中君、星君、岡崎君と一緒にMr. Hammerの会議室へ行きメールやインターネットを使う。
 午前中はドイツ語授業。今のところ欠席もなく何とか頑張っている。
 昼休みは、坂本のところに春から3ヶ月来ていたDr. Fiedler君と奥さんのMarian、友人のオリバー氏に誘われ、今泉先生と外の食事に出た。Dr. Fiedlerはコンピュータ専門学校の教師であり、系列の料理学校に連れていってくれて、研修生が作ったフルコース料理を試食した。味はまずまずだったが量が多すぎて参った。ドイツの高級レストランに入っても同様だった経験から、彼らはいいプロになれるだろうと変に感心した。ドイツは失業率が約2割なので、皆手に職を付けようと一生懸命なのだという。大学まで午後の開始時間ギリギリに送り届けてもらう。かくして昼休みは終わった。
 午後はProf. Gabbertによる講義*Adaptive Mechanical Systems*を聴講し,その後研究室の案内を受けた。アクティブ制振やアクティブノイズコントロールなどが主であった。星君が研究室で四苦八苦しているのと同じソフトウエアを使っている学生が居たので、連絡先を交換し合って、これから情報交換をすることにした。
 夕方はドイチェランドラジオの取材を受けた。レポーターの方は午後の見学から取材をしていた。今泉先生、坂本、木村君、吉田さんが個別の取材を受けた。Mrs. Willmsとレポーターはツーカーの仲のようで、国際交流アピールのために、我々に言わせたいことが決まっているかのような誘導的な印象もあった。これは結構長くかかり皆疲れ切ってしまったが学生も親善大使として笑顔を絶やさなかったのは偉かった。
 今泉先生と坂本は朝7:00〜夕方6:00までノンストップであった。2人はどっと疲れてぐったりしているうちにゲストハウスの夕食を食べ遅れてしまった。レナさんに皿とナイフフォークを借りて、2人で前から一緒に食べようと約束していたローストチキンと銀ダラのスモークを閉店間際に急いで買ってきて、買い置きのパンと一緒に夕食にした。どちらも大変美味しく、これで良かったかも知れないと思った。
 その後、木村君と3人で10月からの留学の手続きについて12時まで話し合った。

9月8日(水)

 7:00今泉先生、村中君、木村君、白井君と一緒にMr. Hammerの会議室へ行きメールやインターネットを使う。
9:00からMr. Kelling (Kooperationsprogramme) と Dr. Fucks(Prof. Gabbertの同僚) のお二人に同行して頂き,Magdeburugの西約80kmの所にある街Braunschweigの近郊のGerman Aerospace Research Establishment (DLR) を訪ねる小旅行にバスで出かけた。
 DLRは予想通り圧巻であった。凄いところに来たな、という事がすぐに判った。前日に機械工学部のProf. Gabbertとの共同研究をしている話があったが、その通り関連するテーマがいくつか見られた。見学の内容は非常に面白かった。各々のテーマに関して意外と少数精鋭でやっている事が判った。カーボンFRPの層間剥離破壊防止のためにクロス同士をミシンでキルティングのように縫い合わせるアイディアはコロンブスの卵であった。
これでもって例えば宇宙ステーションの太陽電池の台等を作っていた。鉄骨のように見える黒いフルカーボンの部材は強く、理屈では判っていても持ってみると信じ難く軽かった。カーボンの宇宙航空構造物のピエゾ素子によるアクティブ制振はコンパクトで良くできていた。カーボン薄肉構造物の挫屈防止の対策や解析は素晴らしかった。複合材料は金属の材力がそのまま適用出来ないので、複合材料用の解析がどんどん改良されているということであった。アクティブノイズコントロールのデモもあった。面白かったのはカーボン薄板の弾性を利用した「可変翼型」で、これは翼型断面をアクチュエーターで飛行状況に合わせて微妙に変化させるものだが、変形の範囲が素晴らしく大きかった。従来の飛行機のフラップのようなパーツと機構学によるものとは全く異なっていて、誰もが一度は考えるが、誰もが出来ないと思っている物を、形にしてしまう柔軟な発想は素晴らしいと思った。2003年に打ち上げられる宇宙ステーションの「箱」を全てカーボンコンポジットの呆れるほどの手作りで作り上げ、振動テストに供しているビデオを見せてくれた。このプロジェクトはたったの6人でやっているそうだ。いくつかのセクションを見て、共通して感じたのはDLRの研究者達は理論だけでなく例外なく手先が恐ろしく器用な人たちであるということであった。
 DLRの食堂で昼食を取って、2時まで30分ほどDLR内を散策したが、構内は撮影が一切禁止なのが残念であった。コーヒー80ペーニッヒ(約50円)は安い。
 2時にタクシーでBraunschweigの中心部Hagenmarktで降り、4時半まで街で自由行動にしたが,必ず複数で行動するようにさせた。学生達は最初は買い物やカフェで色々試すのに夢中だったようだが、最後には皆中心部のハイライトの場所に集まり古い建物をバックに写真を撮っていた。学生たちは集合時間を良く守った。4時半に迎えに来たバスに乗った。ラッシュを避けるためアウトバーンは使わず一般道で戻ってくると6時半であった。
 夕食まで角田君と森君は外でサッカーを楽しんでいた。
 ゲストハウスの夕食は7時からであった。ミートボールのブラウンソース煮とライス。おまけでポテトと正体不明の緑色野菜が付いた。この野菜は緑茶の葉っぱのような味がした。これは皆せいぜい一口しか食べられなかった。

9月9日(木)

 7:00今泉先生、村中君、木村君、白井君と一緒にMr. Hammerの会議室へ行きメールやインターネットを使う。
 午前中はドイツ語の授業。
 13:00からビデオカンファレンス。久しぶりに日本の皆さんの顔を見ることが出来、またこちらの元気な様子を映像で伝えることが出来た。ただ、音声は途切れがちであり、音声面ではあまり使い物にならなかったのが残念だ。
 午後は電気系のProf. Palisのラボツアー。クレーンで吊り下げた荷物を、ロープ(棒)の角度を検出して、揺らさずに起動、停止させるものや、ICEの事故に端を発した鉄道車軸の機械・電気系の不安定性による自励振動についての実験などを見ることが出来た。研究内容は制御であり、一般に機械系の分野に思えた。
 夕食後、坂本と星君、深井君はこの4〜6月まで坂本研にいたフィッドラー君に誘われ、彼の同僚と共にパブへ行った。テーブルにローソク一本立てて、ビールを時間をかけてチビリチビリやりながら、政治、経済、教育、失業問題など色んな事を話した。これがドイツ流というものだろう。ここの店の名前はレイラ。(エリッククラプトンのレイラ)我々坂本、星、深井はロック好きなので嬉しかった。トイレに立ったついでに壁に貼ってある色んなアーティストのポスターをバックに写真を撮ったりした。

9月10日(金)

 7:00村中君と朝食を済ませMr. Hammerの会議室へ行きメールやインターネットを使う。 午前中はドイツ語の授業。学生達は皆勤賞であるが文法がなかなか切ない。文法の先生はこの9月で退官の方で、厳しいが独特のリズムがある授業で「軍曹」のニックネームで人気があった。この日は軍曹の最後の授業だったので終わりに学生達は一緒に写真を撮ったようだ。
 今泉先生と坂本は11時から授業を抜けて、学長Prof. Pollmannを表敬訪問し30分ほど話した。新潟大学との国際交流の経緯や交換協定の話、来年新潟で夏の学校を開催できるであろう事を伝えた。お土産を手渡し、記念写真を撮った。
 午後は、Mrs. WillmsとMr. Kellingと共にSchonebeckへ向かい、弾丸を作っているSK社の見学に行った。駅を降りてから炎天下を40分歩いたのには参った。社長のDr. Plenikowski夫妻は7月に日本に来ているので坂本と星君、深井君と知人であるのは先に書いたとおり。ちなみに氏はDr. Wiswehの大学の同級生であり、33年来の友人である。弾丸の工場はやや古めかしいが、ノウハウの蓄積によってトップクラスのクオリティーを確保しているとのことで、同社の弾丸はオリンピック競技やライフル競技、狩猟などに広く使われているとのことであった。見学の後で、皆で試射サイトに出かけ、銃を撃たせてもらった。10m程のところに直径20センチほどの的を置くのだが、皆そこそこ当たっていた。音も思ったほどうるさくなく、反動もほとんどない。使い方はあまりにあっけなく、女子学生にも全く難がなかった。そういう簡単さが逆に怖いと思ったが、スポーツとしては爽快な物と言えるのだろう。坂本は考え込んでしまった。
 夕方、社員の車に分乗して、昔地下水から塩を作っていたタワーを見学。塩分をふくんだ空気は肺によいそうで現在医療施設になっている。この町は昔、塩を売って大変栄えたそうで、確かに小さな町の割には立派な教会がある。教会の大きさは町の富の象徴でもあったそうだ。
 その後、塩のタワーからしばらく歩き、Dr. Plenikowski氏の自宅でパーティに呼ばれ、バーベQを楽しんだ。Dr. Plenikowskiは東独時代からの苦労話を学生に話してくれた。殆どの旧東独企業が潰れた中で、生き残りを掛けた壮絶な闘いがあったことを伺わせてくれた。学生達は氏から生きるためのパワーをもらったと思う。パーティの最後で試射大会の表彰式があり、須藤君が最優秀で海外旅行に役立ちそうな多目的ナイフをもらった。皆も自分で打ち抜いた的の紙(残念ながら穴が開いていない者も若干居たが)と、散弾のカートリッジの形をしたリキュールの小瓶をおみやげにもらった。
 帰りは最寄りの駅まで歩き、Dr. Plenikowski氏に見送られてマグデブルグ駅へ向かった。

9月11日(土)

 朝ゆっくりと食事を済ませ、10時からバスで2時間かけて(普通は1時間半だが運転手が道を間違えてしまった)Worlitzに向かう。Mrs. Willmsと通訳のアルバイト学生、フランクシュワートが一緒であった。ここのイギリス式公園は水路を手こぎボートや自転車に乗って散策できるようになっており、我々はボートに乗せてもらった。昔の伯爵が夏の別荘にしていた宮殿の中もガイド付きで見学した。こういう小さい宮殿の方が戦争の被害を受けていないため、昔の物がそのまま残っているようである。中はいろんな面で大変興味深く、これはそのまま優れた歴史や文化の授業でありMrs. Willmsの真面目な企画の意図がよく判る。
 帰りのバスも混雑を避けて一般道を走り結構時間がかかった。夕方ゲストハウスに戻って来るとそのまま夕食の時間であり、すぐに夕食を済ませた。このように、少し予定が押してくると自由時間はおろか休憩時間がほとんどない事が多く辛かった。
 そんな中で、夜は頑張って教官2名と学生9人がドーム(教会)へコンサートに行った。8時に始まり、2時間弱をオーケストラとコーラスをバックに有名と思われる男女の歌手が素晴らしい歌声を聞かせてくれた。入場料は席によって12〜28DMであったが、一流の教会音楽を信じられない破格で体験することが出来た。ゲストハウスに帰ってくると10時であった。
 他に3人はフランクシュワートと一緒にテニスに出かけた。この3人ともう1人がフランクシュワートと一緒に再びビリヤードに出かけ、12時過ぎまで戻ってこなかったため大変心配し、厳重に注意した。こういう事は初めてだっので、残念であった。

9月12日(日)

 朝食を7時に済ませ、7時半からMr. Kelling氏と共にマグデブルグ駅まで歩き、8時過ぎの列車で1時間半ほどかけてハルツ山麓のThale駅へ向かった。ここはドイツでは珍しく山らしい山で景勝地として有名である。スキーのチェアリフトで登る。雰囲気は弥彦か角田といった程度で大した標高ではないが、平坦なドイツの地ではこのハルツ山系のブロッケン山が標高1100m強で最も高い!?山である。ところがドイツの景色を山の上から見るということは稀なのでこれが大変新鮮であった。尾根伝いに渓谷を望み、渓流まで降りてきて川岸でレナさんの持たせてくれたランチを取った。(オレンジジュース、ゆで卵、サラミ、パン、リンゴ、チョコレート)例の有名なハルツの魔女人形を買った者が多かった。この辺りは日本のどこにでもある渓流の風景であるが、ドイツではこのような場所は稀なために非常に有名な場所となっている。エルベ川などの大きな河川は音がしないので、久しぶりに川のせせらぎの音を聞いた。ドイツ人の客が来たら、神社仏閣の他に山、渓谷、渓流などを見せに行くととても喜んでくれることを思い出した。
 列車で10分ほど戻ってQuedlinburgで降りる。ここはガイド付きで説明を受けた。戦争の被害がなかったため古い町並みがそのまま残っている。趣がある細道に素晴らしい建物が残っている風景は圧巻である。坂本は4年ぶりに来たがやはりため息が出た。学生達は「どこの通りもあまりに素晴らしく、目移りしてどこを撮っていいのか判らない」とぼやく程であった。山の巨岩がむき出しのアプローチを通って登ると古城と古い教会が隣接しており、眼下には今見てきた素晴らしいQuedlinburgの町並みが広がっていた。煉瓦色の瓦の景色は4年前と変わらず素晴らしかった。ここはつくづく大事に守られていると感じた。
 4時半の列車でQuedlinburg駅から6時過ぎにマグデブルグ駅へ戻り、駅でMr. Kellingと別れる。ゲストハウスには6時半到着。
 ゲストハウスの夕食は7時半からであった。夕食まで時間があったので坂本も混じって「Mr. Kellingが企画してくれた”日独親善素人バレーボール”(翌日月曜日)に備えて練習したが、サッカーボールしかなかったのでレシーブは痛かった。五十嵐君とフランクシュワートも合流した。少しだけ形になってきたが、長身のドイツ人にどこまで肉薄できるか?フランクシュワートは仕事があり週末だけこちらに来ているので、ここでお別れをする。来年日本に来ると言っていたので、そうしたらみんなで歓迎してあげよう。
 夕食はポークにクリームソースをかけた物。付け合わせは野菜サラダとチリ風フライドポテト。


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9月13日(月)

 7:30村中君とMr. Hammerの会議室へ行きメールやインターネットを使う。
 朝食の後、9時からMr. kellingの案内で、エルベ川沿いを抜けて1時間ほど歩いてラジオ局MDR(Mitteldeutscher Rundfunk)の見学に向かうが、エルベ川沿いの散策も意図にあったようだ。
 MDR社長のDr. Gosewisch(ゴーゼヴィッシュ)は日独協会サクセンアナハルト支部の会長でもあり親日家である。坂本も1月にお会いしたので再会を喜ぶ。ここはガラス張りの出来たばかりの建物で、ラジオの他に一部ニュースやクイズ番組なども作っている。最新の音声映像機器を見学したり、実際にスタジオに入ってカメラを操作したりキャスターの席に納まったりした。ドイツに何局かあるMDRとの音声映像のやりとりは全てデジタルで行われており、全てのデータがコンソール上で手に入る様子を見せてもらった。見学終了後、MDR局内の食堂で遅い昼食をとった。
 食事後、直ちに炎天下を40分ほど歩いて(つまり昼休みは無し)オットーフォンゲーリックの博物館へ行き、彼にまつわる歴史や、有名な真空に関する実験などを見せてもらった。
 博物館に入る前に10分ほど時間があり、主要人物のニックネームについて学生と話した。皆よく観察しているので驚いた。
ドイツ語文法Dr.シュタイニケル 軍曹(雰囲気)
Mrs. Willms ワニおばさん、ざます婦人(見た感じ、雰囲気)
Mr. Kelling デカ長(刑事のように真面目で骨太な外見)
Dr. Mellmann テリー(筋肉マンのテリーマンに似ている=シャイで優しそう)
 今泉先生は博物館で待っていたMrs. Willmsの案内で別行動となり化学系の教官と面通しをなさったようだ。
 その後は現地解散で各自買い物などを済ませてゲストハウスに戻った。
 ゲストハウスの夕食はアイスバイン(豚足の煮込み)であった。量が多いので有名な料理で全部を食べられない者が多かった。アイスバインの付け合わせは当然ザワークラウト(キャベツを酢で煮た物)だが、これは多くの日本人が苦手であるように、我々も半分ほどの者が口に合わず食べられなかった。
 夕食後間もなく、7時から学生9人を連れてMr. Kellingが企画してくれた”日独親善素人バレーボール”に電車で出掛けた。ドイツ人の中にはMr. Kellingの息子さんのシュテファンもいた。彼らの中には年輩者も居たが毎週練習している強者で、そもそもドイツ人とは体格が違った。「東洋の魔女」も2名居たはずだが、我々日本人は全く歯が立たなかった。しかしとても楽しかった。
 夜11時頃ゲストハウス到着。今日も体力的にかなりきつかった。

9月14日(火)

 7:30村中君とMr. Hammerの会議室へ行きメールやインターネットを使う。今日が最後なので佐藤先生に前日までのレポートをお送りした。お世話になったMr. Hammerにささやかなおみやげを渡す。
 午前中はドイツ語の最後の授業。Mrs. Fandlerであった。
 午後のラボツアーは我々にはお馴染みのDr. MellmannがChemical Process Engineering学部を案内してくれた。燃焼関係のプラントを中心に見せてもらった。これがマグデブルグでの最後の授業となった。
 珍しくしっかり取ることが出来た夕方の自由時間は、おみやげを買いに行った物が多かった。
 18:00からフェアウエルパーティーとなり、Mrs. Willmsから開会の挨拶、副学長Prof. Mullerからも冒頭が日本語のグリーティングがあった。この方は奥様が日本人だそうで日本についてかなり詳しかった。副学長からオットーフォンゲーリックの銅像のミニチュアをもらった。(これが結構重い。)また、学生達は副学長から一人ずつ修了証を受け取った。日本側からのコメントは特に求められなかった。
 参加されたドイツ側スタッフは副学長Prof. Muller、Mrs. Willms、ドイツ語のMrs. Fandler、ドイツ語のDr. シュタイニケル(=軍曹)、10月から新潟大学に赴任するDr. BronoldとProf. Muller研究室のDr.、計5人であった。
 今回はドイツ側でホストファミリーになってくれた学生や卒業生達が軽く5人以上居たように思うので、日独総勢30名程度となり、ゲストハウス内の小さなカフェテリアは一杯になった。食事はドイツ式のディナーでメインはシュニッツェルであった。パーティは2時間ほど続き、最後に学生達がドイツ語の先生やMrs. Willmsを囲んで握手したり、一緒に写真を撮ったりした。
 休憩を挟んでから、学生の一室を借り、全員が集まって簡単なパーティをしたが皆部屋に入りきれずちょっと困った。フェアウエルパーティに参加したドイツ学生や五十嵐君も合流した。24:00に一旦解散。

9月15日(水)

 早起きして荷造りと朝食を済ませ、9:10にゲストハウス前に集合。ゲストハウスにはエレベーターがないので、階下までスーツケースを運ぶのは大変である。
 頑強な2名がスーツケースの為のトラック要員に残り、他はマグデブルグの駅まで歩く。Mrs. Willmsと別れ、電車でベルリンツォー駅へ向かう。Mr. KellingとDr. Mellmannと一緒である。
 例のベルリンのユースホステルまで地獄のスーツケース転がしを終えて、昼食を取るが、「予算が一人10マルクなので」とのことで、ユースホステル向かいの他大学の学生食堂で食事をする。
 マグデブルグでは朝から晩まで決められた食事が用意されており、公式には外のレストランや大学の食堂ですら自由に利用する機会が1度も!なく大変残念であった。この3週間というもの、用意される物を食べるしかなく、自分の好きなメニューを選べなかったからである。
 ところが、この学生食堂でも「皆に同じメニューを出すように」とMr. Kellingから食堂側にマネージメントがなされ、面白そうな食べ物を横目に、全員がスパゲティミートソースを取らされ不満の声が上がった。さらに、「これは有名なイタリア料理だ」との真顔の説明には言葉を失った。「自分で負担しても良いから興味がある物を食べてみたい」というのが学生達の本音であり、この点や他の要望も合わせてこっそり気心の知れたDr. Mellmannに話しておいた。後日判ったことだが、今泉先生もMr. Kellingにそれとなく要望して下さったそうだ。
 午後は、ベルリン郊外にあるゴミ処理プラントを見学に行った。現場に着いてから、なぜこの日にDr. Mellmannが一緒なのかを悟った。「プラント」と聞いて、日本人全員が「植物園の見学か何かだろう」と思い込んでいた。が、これはゴミ燃焼プラントについての見学授業であった。案内してくれた方はドイツ語だけだったのでDr. Mellmannは通訳だったのだ。引率教官としては「授業は終わった」と一旦思い込んでいた学生達の期待?を裏切ってしまい、大失敗であった。プラントは素人が見た目にはドイツ1に大きい事位しか目立つところはなかったが、環境やリサイクルを重視した物らしく、企業として採算が取れているという点が進んでいると感じた。
 6時にユースホステルに戻ると同時に夕食が用意されていた。本日はここまで休憩時間が無い。移動中に休めるかというと公共の交通機関内では日本ほど気が抜けない。
 というところに間髪入れず7時から、Mr. Kellingが国会議事堂(ベルリンで最初にMrs. Willmsが案内してくれた所)の上に登って夜景を見ようと誘ってくれた。せっかくの好意だったが、朝から殆ど休憩時間がなかったので、学生達はみな自由時間の方を選んだ。(夜のベルリンは危険なので外出する学生には店が閉まる8時には帰ってくるように指導した。岡崎君が点呼をしてくれた。)
 夜景ツアーにはMr. Kelling、娘さんのAnke、今泉先生、坂本、吉田さんが出掛けた。国会議事堂から見えるブランデンブルク門の夜景は素晴らしかった。人数が少なく身軽だったせいか、その後、ベルリンの旧東側の町を案内してくれた。旧東側は古い建物が多く残っており、整備が進んでくれば観光地として素晴らしいものになると感じた。
 ところで、毎度のことだがドイツ人はどこまでもどこまでも良く歩くので、ほとほと参った。これもドイツ文化の勉強か?疲れ切ってユースに戻ってくると23:30であった。

9月16日(木)

 朝食を済ませて9時からポツダムへ電車へ向かう。Mrs. WillmsとMr. Kellingが一緒である。ポツダムで観光バスへ乗り、ガイド付きのツアーとなった。ポツダムでは基本的にバスに乗ったままで、ガイドの説明を聞いたが、一般のドイツ人客と一緒だったため、ガイドはドイツ語と英語で繰り返して説明しなければならなかった。当然もの凄い早口になり、留学経験がある学生にもあまり内容が聞き取れなかったようだ。有名な建物もバスで早足に通り過ぎるので余り記憶には残らなかったようだ。むろん写真を撮る間もなかった。
 サンスーシの公園と宮殿はバスを降りての案内になった。特に宮殿内は念入りに説明がされたが、先の理由であまり聞き取れなかった。幸い日本語の解説が置いてあったのでそれでフォローをした。宮殿は内外共に素晴らしく、学生達も感銘を受けたようだ。
 昼食は古いレストランでドイツの伝統料理を食べた。レバー挽肉の炒め物をジャガイモと一緒に食べる物であった。勝手だが、こういう変わったものを教えてもらえるならお仕着せでも悪くないと思った。
 ベルリンへ戻ると4時過ぎで、久しぶりに定時に予定が終わった。皆、夕食までベルリンの町を散策した。森君と角田君は再びポツダムまで足を伸ばしたそうで、その行動力に感心した。
 夕食はユースホステルで用意された物をとった。主菜はハンバーグであったが、食べきれないほど出たので、気の効いた学生は夜食用にテイクアウトしたようだ。
 Mr. Kellingが7:15から最新技術を駆使した映画に連れていくというので急いで食べた。夕べ、誘いを断ったのが悪いと思ったのか、今日は12人の学生(と教官2名)が着いていった。(星君、白井君、赤川君は別の映画を見に行ったようだ。)
 場所はまたポツダムで、IMAXという博覧会のパビリオンによくあるような球面スクリーンの特殊映画であった。「最新のテクノロジーはどうだ?」と聞かれたが「こういうのは日本にもよくある」とは言えなかったので「Good, but feels bad litte」(良かったが、ちょっと酔ったよ)と答えた。
 我々が見た物は「ハワイの自然」をテーマにした物であった。テーマは色々用意されているようで予告編で見たいくつかの方が面白そうであった。画面と音声は迫力があったが、ドイツでなぜハワイなのか?だったのと、カメラワークが凝りすぎていて乗り物酔いに弱い私はかなり酔ってしまった。学生達はそうでもなかったようで安心した。
 ユースに戻ると10:30位だったろうか。
 思うに、この夜の企画は特に夏の学校とも観光とも関係が無さそうであり、ただ単に「危険な夜のベルリンで出来るだけ自由に外出させないため」のものではないかと思った。Mr. Kellingにご苦労様と御礼を言いたい。

9月17日(金)

 最後の朝、6:45から朝食。7:30までにスーツケースを階下まで降ろす事になっていたが、前日からエレベーターが故障していたものが直っていなかった。ユースは建物の4階にあったが、これは日本で言うところの5階である。さらにドイツの古い建物は天井が非常に高いので、日本で言うところの7階ぐらいの高さから階段で荷物を降ろす羽目になった。前日からこれを予想して皆で協力して早めに降ろすように今泉先生が学生達に連絡して下さっていた。坂本のスーツケースもパソコンが入っていて重く、一人ではどうにもならないので星君に手伝ってもらって降ろすことが出来た。
 あとはタクシーで荷物と共にベルリンテーゲル空港に向かうだけとなったその時、一人の学生の航空券が見つからなかった。必死で探すがとうとう見つからなかった。Mr. Kellingが迎えに来る。時間切れになるのでとにかく空港へ向かう。「チケットはお金で買えるので、パスポート無くすよりはマシ。みんなで一緒に帰ろう!」と開き直る。紛失した航空券の番号を皆のチケット番号を照合して調べ、(パスポートだけでなく、航空券のコピーを取っておけばもっと良かった・・・)エールフランスの係員に事情を説明すると、最初は「団体チケットの一部は値段が付けられないので、一部再発行は出来ない」と言われ20万円近くを覚悟したが、交渉するうちに1000マルクとなり、最終的にわずか740マルク(5万円弱)ほどで成田までのチケットを発行してくれるという。往復17万円台のチケットの片道分で5万円ということはないだろうから金額的に見て再発行手数料とも解釈できたが、後でDr. Wiswehに聞いたところでは「ドイツで買った場合は成田往復で僅か1400マルク程」だそうなので、700マルクはその半分であり片道としては順当な値段なのだろう。ともあれ不幸中の幸いである。本人のクレジットカードで購入させる。後日チケットが出てくれば、この分の金額の多くは戻ってくるかも知れない。
 Mrs. Willmsは電話を受けてマグデブルグのゲストハウスを調べてくれたりしてMr. Kelling共々迷惑をかけてしまった。一方でこんな事をせずに「盗難→転売→空席無し」を警戒して一時も早めに新規で購入した方が得策かも知れなかった。危機管理能力を問われる一件であった。
 また、万一空席がなかった場合、あるいはパスポートを紛失した場合、引率教官の片方が当該学生と一緒に残るべきか、ドイツ側スタッフに任せて帰って来て良い物か、そういったマニュアルの必要性についても考えさせられた。
 とにかく、一件落着で搭乗まで少し自由時間も取れ、全員揃ってテーゲルから飛行機に乗ることが出来たことは何よりであった。離陸は30分程遅れた。朝が早く、気持ちが悪かったが、機内食は軽い物で助かった。
 B737はパリシャルルドゴール空港へ少し遅れて着く。構内をバスでDターミナルへ。隣のFターミナルまでは距離はあったが判りやすく落ち着いて行動できた。EU圏出国審査も無事終わり、気が付いてみれば時間に余裕があった。念願のパリ(厳密には出国後なのでEU圏外だが)での自由時間を30分!だけ取ることが出来た。手持ちのフランがないのでクレジットカードでフランス土産を買った者も居た。ともあれ、香水の匂いがドイツのそれと違うということだけでも、ほんの少しフランス気分を味わった。
 B747へ乗り込むと、いよいよ引率の仕事もほぼ終わりということでホッとした。学生達は充実感で皆良い顔をしている。飛行機は成田行きと云うことで日本人が多かった。
 機内食は鮭とか茶そばとかが出て、フランス積み込みの日本食なので心配したが、3週間も日本を離れていたせいか、意外に美味しく感じて驚いた。
 そして日本人向けなのかどうか、帰りはやたらアルコール類のサービスが多かった。シャンペンもワインもフランス製だった。そういえば機内は半分フランスなのであった。坂本は行きの飛行機では全くアルコールは控えていた反動のせいか、帰りは学生達がどんどん持ってきてくれるものも含めて結構飲んでしまい反省。相棒の岡崎君と共に懺悔しつつ眠りについた。

9月18日(土)

 飛行機の中で日付も変わり、中盤を過ぎた。斜め前の席に座っていたフランス人の母子(1歳と2歳)の上の方の男の子が強烈に騒ぎ出した。お国柄なのか母親は意外にも放っておくので、村中君、岡崎君、坂本の3人で必死になだめようとする。遊んでいてうまく行くときもあるが、喜ばせ過ぎると奇声を上げてかえって周りにうるさいので、これが非常に難しい。その子の隣の席の荒沢さんはもみくちゃになったようだ。坂本はこの子を肩車してB747の機内を散歩した。少しストレス発散して静かになったようだ。(当方3歳の子持ちで慣れている)これは、その子本人はもちろん機内のスタッフと母親に大変受けた。村中君は一生懸命に言葉を教えていた。1時間ほどかけて、なんと谷啓の「ガチョーン」をゼスチャー付きで覚えさせてしまった。このネタがフランス人に判るのだろうか。続いてドイツ語の先生(軍曹)の口癖「リヒテヒrichtig!(その通り!)=英語のright」を覚えさせてしまった。フランス人の彼にとって最初のドイツ語かも知れない。
 最後の機内食は軽いものだった。
 日本時間の8時、予定通り成田に着陸。皆、晴々とした顔で日本の地を踏む。すぐに湿度の高さに驚きうんざりする。だが、もう喉が痛くなることはないだろう。日本食も待っている。
 今泉先生と坂本「あとは税関抜けて記念写真撮って解散ですなー」「終わりましたねー」。ここで今泉先生の口癖「99.99999%位終わったかな」が出る。確か747に乗る前は99.99%だったような気が。「いやーもう100%にしてもいいでしょう?」と坂本。
 確かにまだ終わっていなかった。我々教官と木村君のスーツケースが破損していた。良くある事なので仕方がない。特にクローズトランジットでは積み込みを急ぐ余り荷物の扱いが乱暴になるためと思われる。しかし17人中3人分が破損とはひどい。気を取り直して税関を抜けると、例のフランス人親子が居たのでまた遊んであげた。
 少し待っても、二人が税関から出てこない。今泉先生が様子を見に決死隊?で税関の一方通行逆行を試みる。むろん許されなかったが、遠くのバゲッジクレームに学生の姿が見えたとの事。きっとスーツケースが届いていないのだ。皆青くなった。本人はもっと青くなっているはず。
 しばらく経って青ざめた二人が手ぶらで税関を出てきた。何も聞く必要はなかった。一人は日本円と帰りの新幹線チケットがスーツケースに入っている(これはやめましょうね)とのことで、今泉先生と坂本で一万円ずつ貸す。とにかく皆で記念写真を撮って解散する。
 かくして、成田からの帰りの電車はちょっと落ち込みモードであった。が、二人ともスーツケースは後日別便で届いたとのこと。結果オーライになってしまったが、めでたしであった。
 三人の壊れたスーツケースは後日指定された所へ着払いで送れば修理して送り返してくれるということであった。今泉先生と坂本のスーツケースはもう元を取ったという感じだが、木村君のものは新品だったので気の毒だった。彼は10月にドイツ行きがあるのだが、それには間に合わせて修理してくれるとのことであった。
 最後に畳みかけるようにいくつかのトラブルがあったが、それらが教えてくれたことは「たとえ体一つでも無事に帰って来ることが一番大切」という、ごく当たり前のことであったと思う。

(よく歩くドイツ人)
 ドイツ人は長時間歩くのが全く苦にならないらしく、案内される方としては喉は乾くし、トイレタイムはあまりないし、結構きつい事が多い。そもそもドイツには路上に自動販売機という物がない。walk little bit と言われたらかなりの距離を覚悟した方がいいかもしれない。

(予算が潤沢で消化しなければいけないのだろうけれど)
 食事は全部用意してもらわなくても良い。日本に普通に住んでいても食費はかかるのだから、夏の学校滞在中に食費がかからないと言うのは逆におかしいのではないか?そのお金を間接的に誰が払うのかを考えると非常に心苦しい。
 学生は外食をしたり、食料を買ったりして、人や文化と触れ合い、辞書を引き言葉を覚えるのであって、これが海外の生活での大きな楽しみと言える。また、学生食堂では友人を作ったりするチャンスもある。ゲストハウスで隔離されての朝昼晩の食事は、管理する側は楽かも知れないが、寂しすぎるし余りにも不毛である。
 スケジュールなどの関係もあるだろうが、せめて半分の食事は自由にさせるべきだと思う。特に夕食は(朝食と同様な物の場合は)ほとんど必要ないとの意見が多かった。

(夏の学校とドイツ文化)
 午前の授業は、ドイツの文化と教育に関する物が合計2時間ほどあっただけで、あとは全てドイツ語の授業であった。新潟の夏の学校では浴衣を着たり、お茶会があったりしたようで、もう少し文化的なところも欲しかった。これは観光を兼ねた見学に入っているのかも知れないが。

(裏話)
 ゲストハウスの宿泊料はシングルで一泊40マルクと聞いた。この種の宿としては非常に高いのだそうで、掃除の係の方から「日本人は金持ちだから・・・」と言われてショックを受けたのだそうだ。(慶応大学から来ていた学生より)
 そういえば私が以前ブラウンシュバイクで泊まったホテルでは朝食付きで36マルクであった。ハノーファー郊外でも安いところを探すと似たようなものだった。そう考えると、大学内で素泊まり40マルクは高いのかも知れない。
 今回は学生達はツインルームだった事を考えると、高い宿泊費を節約しているのかも知れない。ゲストハウスはMrs. Willmsにとっては非常にマネージメントしやすいので、若干の犠牲を払ってもここがベストの選択となるのだろう。

関連リンク

マグデブルグ側のHP記事
http://graf350.urz.uni-magdeburg.de/rpoe/prmi99/118.html

カフェテリアの週間メニュー
http://www.uni-magdeburg.de/rgottsch

ビデオカンファレンスの様子(マグデブルグ側)
http://msweb.urz.uni-magdeburg.de/hammer/jap_pic/

http://www.woerlitz.de/wenglish.htm
http://www.stadt-dessau-de/
http://www.stadt-dessau.de/woerle.htm


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